戦人-イクサビト-
#02
嵐の前のような静けさだった。風もふかず、木々は音を立てない。月も出ておらずあたり一面が闇であった。
時折、鵺が寂しそうな声で鳴く。
どさり………。
武田の屋敷の門番をしていた二人の若い兵は、今の音を不振に思った。あたりは闇に覆われて見えない。
二人は顔を見合わせ、おそるおそるあたりを見回す……と。
目の前に、大きな黒い鳥を見た。どこかで見覚えがあった。
黒い鳥は、自分の足元を見ろというふうに二人の兵の視線を促す。
「……猿飛…佐助様……?」
右側にいた兵が不意につぶやく。
声に反応してか、佐助は重たそうにその赤茶色の髪をした頭をあげ、苦痛に歪めた笑顔を見せた。
「驚かせたかな?
悪いけど……旦那か大将呼んで来てくれない?俺様、もう限界なんだ……。」
佐助の頭がどさという音を立てて地面に落ちる。
二人の兵士たちは驚き、そのうちの一人は慌てて武田の屋敷へと飛び込んでいった。
「………太ももから大量に出血なされています。
早く傷を塞がないと、血液が不足し死に至ります……。」
武田軍の医師が傷口をみて、そうつぶやいた。隣では幸村がうなだれ、どん、と畳を拳でたたいた。
この場にはいない。を呼ぶと、今の佐助を見て、パニックを起こしかねないからだ。
信玄は厳しい顔つきで医師を見ている。そして口を開いた。
「お主には傷は塞げないと?」
医師は目を細め、信玄から視線をはずしてつぶやいた。
「ここまで深い傷、私は見たことがございません。
塞ぎようにも傷口に汚れが入っていれば、たとえ傷口を塞いだとしても足は腐り果ててしまうでしょう。
そうなれば……猿飛殿は命を落としかねない……ですが……」
「ですが」の言葉に反応したのか、それまでうながれていた幸村が再び頭を上げ、信玄は力強い目つきで医師を見た。
医師はふぅとため息をつくと、信玄に向かって言う。
「お館様は不思議な姫君をお持ちのはず。
殿の陰陽術を使えば……もしや助かるかもしれませぬ。」
ぱぁーっと幸村の顔が晴れやかになった。
慌てて幸村は立ち上がるとを呼びに行こうとする。
信玄は鋭い顔つきをして、顎を触っていたが、納得したように幸村へと叫んだ。
「幸村ぁぁぁ!!!佐助の命に関わる問題じゃ!!!今すぐを呼んでこいっ!!!」
「御意っ!!!」
ばたばたと廊下を駆けていく幸村の足音を、信玄は複雑な思いできいていた。
できればを呼びたくなかった。にあの……陰陽術というものを使ってほしくなかった。
あれは人を助けることができるかもしれぬが……人を殺せる術でもあるのだから。
そして、もし陰陽術に死者を蘇生させる術があったとしたら。
もしがそれを使ってしまったとしたら……。
世界の道理というものを壊してしまうであろう。
信玄にとって、それが一番怖かった。
風のふかない屋根、月の出てない空。
ただ闇が広がる世界に、はたたずんでいた。
武田の屋敷の屋根から見える城下町は、すでに賑わいがなかった。民はとっくに休んでいる時間だからだ。
目を閉じ、屋根の上にたたずむ。
集中して何かを捕らえようとしているのが分かった。真剣だった。
「……ふ、ぅ……。」
しばらくしては目を開けた。
遠くの山々を見る。結局分からなかった。
今日の昼に感じた、あのなめるような殺意がどこから来ているのか。
たとえ意識を集中させても、どこから来ているのか分からない。
だんだん殺気は強くなっていっているのに。
「分かったか?主(あるじ)……」
の横で誰かがつぶやく。人間ではないものであった。
それは真っ白な毛で覆われており、大きさは虎より少し大きいものの、
猫でもなく犬でもなく虎でもない。どちらかといえば、犬と猫の中間のような生物。
これが、が使う式神。「オロチ」という。
「オロチ、分からない……ですね。
殺気はだんだん強くなる。だけど……どこから来ているか分からない。」
「どうやら相手のほうが殺気を隠して放つのには一枚上手のほうだな。でも呪われるよりましだ。」
オロチはハッハッと息を吐きながら言った。確かに呪われると厄介なことになりかねない。
呪いほど厄介なものはこの世には存在しないだろうとは苦笑した。
「でも別のことで分かったこともあります。
殺気は放っているものの、相手は陰陽師じゃないってことですね。」
ふと、が笑顔をもらした。オロチは不思議な顔つきでの横顔を見上げる。
「どうして分かる?」
「直感………でしょうか?陰陽師には直感も大切なのですよ。」
にっこりと笑ってオロチに顔を向ける。
「そんなもんか」とオロチはつぶやくと、今まで張っていた気を元に戻した。
そのとたん、雲に隠れているはずの月が顔を出し、風がそよそよとふきわたった。
確かにの直感は当たることのほうが多かった。
それゆえに、佐助の身に、何か大変なことが起きているような気がして心が落ち着かなかった。
案の定、の直感は的中している。このことを知ったのはそれから数分後。
「様!!!どこにおられるのですか!?」
庭先で切羽詰まった様子で幸村が声を張り上げている。「ん?」とオロチは下を見た。
「虎の若子殿が焦って主の名をお呼びだ。」
「そうみたいですね。下におりてみましょうか?」
言うことよりも実行することのほうが早かった。
はふわりと屋根から飛び降りると、幸村のそばで綺麗に着地した。
なるほど、その身のこなしは、本当に朱雀のようであった。
「わわわわっ!!!様っ!?」
幸村はあまりに驚き飛びのいたが、の姿を見つけるとほっとしたように胸をなでおろした。
そして早口でいう。
「佐助が……ひどい傷を負って……このままでは命にかかわると医師が。
様の陰陽術で……佐助を救っていただきたいっ!!!」
幸村から『佐助』という言葉を聞いたの顔からは、さぁーっと血の気が引いていった。
直感は当たったのだ。は一目散に佐助の寝かされている部屋へと走った。
「……鴉、朱雀が私の殺気を探ってる。」
「だから何だ。」
隣の木の枝に座って、笑みを漏らすくのいちを鴉は冷たい目で見た。
暁の紅い唇からは「うふふ」と声が漏れる。
そのたびに白い喉が動いて、まるで不気味な雰囲気をかもし出している。
「戦える。あの甲斐の朱雀と。めちゃくちゃにしてやりたい。」
そんな風に声を漏らす暁を冷静なまなざしで鴉は見ていた。
そして、二人のいる場所からそう遠くないところで、伊達軍はついに甲斐へと出発する準備を終えようとしていた。
先頭には独眼竜 伊達政宗。
その後ろには家臣の片倉小十郎景綱、伊達藤五郎成実、鬼庭綱元が続いていた。
「野郎共!!!甲斐の虎に一泡ふかせてやろうじゃないかー!!!」
「YEAR!!!!」
政宗が声をかけると、後ろに続く兵士たちの士気が上がった。
それと同時に大漁旗がかかげられる。
生真面目な小十郎はそんな伊達軍の兵士たちを見て、胃を痛めていた。
きりきりと痛む胃をおさえていると、後ろから誰かに背中をバンバンとたたかれた。
振り返ると成実の顔があった。
「小十郎殿、そんなに心配しなくったってウチの殿ですし。」
「成実はこの進軍の真の理由を知らないからそんなに気楽にいられるんですよ。
あぁ何と信玄公にお詫びすればいいんでしょう。
ホントに……穴があったら入りたい気分です!!!うぅ……っ!!!」
小十郎はまた再び痛む胃を抑えた。
成実は何のことを言ってるのか分からないので、とりあえず首だけ傾げた。
そして隣で胃痛に苦しむ小十郎の背中をさすってやる。
小十郎は「あぁもぅ、殿に仕えるのをやめようか」などぶつくさ言っていた。
当の本人、政宗はというと……。
「真田幸村ァ……俺の相手はお前だけだ。待ってろよ……HAっ!!!」
武者震いをし、手綱を強くひっぱった。
ついに伊達軍が甲斐へと進軍を始めたのである。
馬でかける政宗たちとともに、忍である鴉、暁も甲斐を目指した。
その姿を遠くからじっと見つめる黄土色の瞳。
「あの方に……お伝えしなければっ!!!」
やがて、黄土色の瞳はすぅーっと闇に飲み込まれていった…。
佐助が傷を負い、帰り着いてから4日がたった。
今じゃ体もぴんぴんしている。これものおかげだと、佐助はすごく感謝していた。
幸村と信玄の話によると、佐助の負った傷はの陰陽術によって綺麗にふさがれた。
それはもうびっくりするほどの手さばきだったらしい。
から言わせると、その術は『ぬりごめ』という術らしい。
真っ白な和紙を傷口にあてがい、和紙に傷を移動させる。
そうすると傷は綺麗になくなってしまうというのだ。
そのかわりに、傷口にあてがってた和紙はどす黒く汚れてしまうそうだ。
実際幸村も信玄もどす黒く汚れた和紙を見たと言っていたのを佐助は思い出した。
「はは……今考えてみると末恐ろしいお姫様なのかもな。」
佐助は半笑いだ。そのとき、佐助の背後に人が現れた。
佐助はくるっと振り向くと「よぅ」と片手を挙げた。
相手は冷静な態度で佐助を見ている。いや、あきれているのかもしれない。
「佐助……お前ものすごい傷を負ったと聞いていたが……猿の回復力は馬鹿にできんな。」
「そんなこというなよ鎌之介〜……。」
由利鎌之介。
真田十勇士のうちのひとり。つまりは、佐助の部下だ。
負傷した佐助のかわりに奥州の伊達の動きを探っていたのだ。
「伊達が動き出したぞ。伊達が奥州を発ったのが3日ほど前だ。
この速さでいくと……おそらく5日後には甲斐にくるだろうな。」
鎌之介の話を聞いて、佐助が妙に深刻な顔をした。
それが気になったのか鎌之介は「何だ?」と佐助に聞いた。
「忍……いなかったか?男と女、一人ずつ。」
その意味を悟ったのか、鎌之介は一言「いた」と答えた。
伊達軍忍隊の長、鴉。彼のあの冷たい目だけはどうしても忘れようがない。
(俺を狙ってるような目つきだった。)
そしてあのくのいち。名前は知らない。
だが何となく、忍の直感というものが働いてるのか、あの女だけは相手にしてはいけないと思った。
もっと他にあいつと戦わなければならない人物がいるような?
誰だろう?旦那……?大将……?それともまさか……。
「おい、佐助。聞いているのか?俺はまたこれから伊達の偵察に行く。
伊達の動きについてはお前からお館様に伝えろ。」
「ん、あぁ悪いな。それじゃ他の仲間にもよろしくな。」
佐助の声と同時に、鎌之介の姿が消えた。
まさか……とあのくのいちが戦うなんて考えられないよな。
そう佐助は思うと、信玄のいる部屋へと急いだ。
「お館様、この甲斐の地にて伊達を討つことは困難にございます!!!」
「聞けば伊達軍は約1万五千の兵だとか。我が軍の兵はどうやっても1万あるかないか……。」
「こんなときこそ策を練るのが一番なのではっ!?」
「しかし伊達の軍勢はもうそこまで来ておるのですぞ!?」
「だからといって、策も練らずにそのまま出迎えるなど笑止!!!」
「民もみな震え上がっております……!!!
ここは被害を最小限に食い止めるため、伊達と同盟を結ばれるのはいかがかと。」
「竜と手を結ぶなどできるはずがあるか!!!」
真田忍隊による情報がもたらされてから、武田の軍議では、伊達に対する対抗策が練られていた。
しかし……軍議というどころかこれはもう、口喧嘩のような感じであった。
そんな中、信玄は腕組みし、静かに目を閉じている。
幸村はそんな信玄をじっと見ている。ただまっすぐに。
「いい加減にしてください。こんなところで大の大人が言い争いなど。
これでは軍議というよりも、ただの口喧嘩ではありませんか。」
見かねて、信玄の隣に座っていたがぴしゃりと澄んだ声で言い放った。
武田の武将たちは甲斐の虎の娘に言われて一斉に口をつぐんだ。
その直後、信玄は静かに目を開き、一言言った。
「伊達軍を甲斐の北の地で迎え撃つ……。」
このとき、信玄にはある確信があった。
それは奴の性格から考えて、必ずそうしてくるであろうという確信。
これは長年戦ってきたもの同士が思うこと。その思いに……賭けてみようと信玄は思ったのだ。
「明日の朝、甲斐の北の地へと軍を進める。全員………出陣じゃーっ!!!」
「御意ーっ!!!」
何はともあれ、これが信玄の出した判断である。
信玄を信じるからこそ、今まで口喧嘩をしていた武将たちは素直に信玄の判断を受け入れる。
幸村は信玄の顔をみて、力強くうなずく。はしっかりと信玄の手を握った。
「……美しき剣よ。どうであった?」
あの黄土色の瞳には今、整った顔立ちの男が映っている。
それは越後の軍神 上杉謙信であった。
「伊達軍は甲斐へ向けて進軍中のようです。
その数おおよそ1万5千。たいして武田軍は1万いるかいないか。
それでも甲斐の虎は、甲斐の北の地へと進軍する模様です。
この速さでいくと、伊達軍と武田軍がぶつかるのが……早くて2日後……。」
謙信の美しき剣 かすがは丁寧に謙信に述べた。
謙信はすっとたつと、青々とした空を見上げていった。
「……伊達の者に邪魔をされては困りますね。甲斐の虎は越後の軍神が討ち取るのが定め。
何人(なんぴと)も甲斐に進軍することは、この謙信が許しません。
虎の地を攻めていいのは、この軍神だけ。」
謙信は目を細め、かすがを見た。
「さぁ行きましょうか、我らも。美しき剣よ、さらに探りをいれなさい。」
「はい、謙信様。」
そうかすがは言うと天井へと消えていった。謙信は再び晴れやかな空を見上げつぶやいた。
「信玄公を討ち取っていいのは私だけですよ。」
そのころ、かすがも森の中を走りながら同じようなことを言う。
「あの馬鹿猿を殺っていいのは私だけ。お前らなんかには手出しさせない……鴉」
かすがは走るスピードを上げ、森の中へと消えていった。
戦が始まろうとしていた……。
続。
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